大伴家持、二十代で富山へ——越中五年間という奇跡

読みもの|『越中万葉物語 あゆの風』刊行によせて 二

馬並めて いざ打ち行かな 渋谿の
清き磯廻に 寄する波見に

大伴家持(万葉集 巻十七・三九五四)

馬を並べて、さあ出かけよう。渋谿(しぶたに)の清らかな磯辺に、寄せる波を見に——。

渋谿とは、今の高岡市、雨晴(あまはらし)海岸のあたりのことです。海越しに立山連峰を望む、あの絶景の海岸を、千三百年近く前に馬で駆けた青年がいました。

大伴家持。前回の記事の最後に登場した、万葉集をまとめ上げた貴族です。今回は、彼がなぜ富山にいたのか、そこで何をしていたのかを追いかけます。

天平十八年、夏。都から北へ

天平十八年(七四六年)、家持は越中国守(えっちゅうのくにのかみ)に任じられ、都・平城京から越中国府へと赴任します。二十代の終わりごろのことでした。

国守とは、いまで言えば県知事にあたる地方長官です。徴税から農地の管理、裁判、祭祀まで、国のいっさいを預かります。家持は、名門・大伴氏の跡取りとして、この北の大国で行政官としての経験を積むことになったのです。

越中国府が置かれていたのは、今の高岡市伏木(ふしき)のあたり。小矢部川の河口に近い高台で、目の前には港が開け、振り返れば二上山(ふたがみやま)がそびえる要地でした。

都育ちの目に、越中はどう映ったか

都から来た青年貴族にとって、越中は驚きに満ちた土地だったはずです。

海の彼方に、雪を頂いた三千メートル級の峰々が白く連なる。家持はこの山を「立山(たちやま)」と歌に詠み、夏になっても消えない雪を、都の人々がまだ知らない奇観として書き留めました。

国府の周りには豊かな潟や入り江が広がり、射水(いみず)の平野では稲が実る。港には船が行き交い、人と物が集まる。冬になれば、都では見たこともない雪が、何もかもを白く埋めつくす。

美しく、豊かで、そして時に厳しい。その振れ幅の大きさこそが、越中という土地でした。

越中で、歌人・家持は生まれた

しかし家持の越中生活は、順風満帆には始まりませんでした。赴任からまもなく、彼は都からの知らせで、たった一人の弟・書持(ふみもち)の死を知ります。遠い任地で、駆けつけることもかなわない。その悲しみを、家持は長い長い挽歌に注ぎ込みました。

悲しみを言葉にすることで、人は立ち上がる——越中時代の家持の歌には、そんな軌跡が刻まれています。

そして、数字がそれを物語ります。家持が万葉集に遺した歌はおよそ四百七十首。万葉集の歌人の中で最多です。そのうち二百二十首あまりが、わずか五年の越中時代に集中しているのです。生涯の歌のほぼ半分を、彼はこの土地で詠んだことになります。

二上山を、布勢(ふせ)の湖(うみ)を、奈呉(なご)の海を、立山を。土地の景色を詠み、土地の人々と歌を交わし、宴では部下たちと唱和する。都では若き貴公子のひとりに過ぎなかった家持は、越中の五年間で、日本文学史に名を刻む歌人へと変貌しました。

越中で詠まれた歌、越中を詠んだ歌は、家持のものだけでなく全体で三百三十首あまりにのぼり、「越中万葉」と呼ばれています。一つの地方国でこれほどの歌が生まれ、しかも詠まれた場所の多くが今も特定できる——全国でも類のないことです。

だから富山は、万葉のふるさと

天平勝宝三年(七五一年)、家持は五年の任期を終えて帰京します。のちに彼は、万葉集の編纂に深く関わり、あの四千五百首の歌集を後世に遺しました。名もなき人々の声に耳を澄ますその姿勢は、越中の五年間で育まれたのではないか——そう考えたくなるほど、この土地は家持を変えたのです。

その足跡は、今も富山に息づいています。かつての国府があった高岡市伏木には、家持と越中万葉を専門とする「高岡市万葉歴史館」が建ち、氷見や高岡の景勝地には、歌を刻んだ碑が点々と立っています。

ところで——家持が越中で書き留めたのは、景色や歌だけではありませんでした。彼はこの土地で、都の書物には載っていない「生きた言葉」に出会っています。

海から吹く、あたたかい東風。土地の人々がその風を呼ぶ、美しい名前。

次回は、その言葉の話です。そしてそれは、近刊『越中万葉物語 あゆの風』の書名の由来でもあります。

近刊予告

越中万葉物語 あゆの風

大伴家持、越中五年間の物語。都育ちの青年貴族は、この地で何に出会い、いかにして「名もなき声の聞き手」となったのか。実在の万葉歌八十一首を織り込んで描く長篇。北前書店より近日刊行予定。